足利学校の庠主(校長先生)

 江戸時代(文化・文政時代)に足利学校の庠主に、本源寺の住職が任命されました。それも二代続けてです。代々臨済宗の僧侶が勤めてきたものですが、当時は江戸幕府から任命される職位でした。庠主には将軍家の一年を占うなど、重要な任務があったようです。

 

 学校第十九世実厳和尚は、本源寺の二十一世住職でした。実厳和尚は本源寺の境内伽藍の整備に精力的に努めました。廃寺になってしまった寺院から鐘楼門を移築して梵鐘も鋳造しました。梵鐘は先の大戦時に供出されてしまいましたが、当時は新聞に記事が載り、学校ゆかりの実厳和尚の銘が記された由緒ある鐘が供出されると報じていました。学校にも在位十九年と長期に渡り、学校の境界線をはっきりさせるために植樹をしたりと、大きな功績を残しています。

 

   学校第二十世は、実厳和尚の弟子であり本源寺の二十二世住職を継いでいた大梁和尚が引き継ぎました。大梁和尚は、残念ながら健康上の理由から学校在位は一年程でした。しかし本来は、実厳和尚の前に庠主に就任していた可能性があったのです。庠主の話が大梁和尚にあった時が二十歳台だったことから、年齢の若さから師匠の実厳和尚が先に就任することになったようです。実厳和尚が学校に勤められてからは、大梁和尚が本源寺の実務を執り行いました。実厳和尚が長く庠主を勤めることができたのは、優秀な弟子であった大梁和尚の影の支えがあったからなのです。

 

 現在足利学校に展示してある曲録(和尚が座る椅子)は実厳和尚が使用したもので、本源寺に残されていたものを貸与しています。

 また、本源寺には庠主直筆の記録や足利学校の制札などが残されています。(閲覧はできません)

 

 両庠主の墓は本源寺内に現存しております。実厳和尚の墓は学校にもあります。

 

実厳和尚直筆の記録